516回 (2015.2.14

北辺の城 岩谷堂城・別名江刺城について

江刺 精久 (一遍会 理事)

 

はじめに

『江刺城山城惣廻五百八拾余間城より町四拾間ひくし』と正保年間作成の絵図(宮城県図書館所蔵)に三行での書込みがある。

江刺市の調査報告書には、この城は連郭式山城に分類されていて、それは岩手県奥州市江刺区岩谷堂字館山にあり、その城址は現在、史跡公園(館山歴史公園)や学校(県立岩谷堂高校)の校地の一部として整備され利用されている。その館山に登ると広い眺望が開け、西・南方には広々とした江刺平野が、東・北方には谷沿いに展開される水田を望む事ができる。このように郡を概観できる便利な立地であることや地所などの規模が大きく、北辺の守備において十分に中心的な役割りを担ってきた城であった事が伺える。

その最初の痕跡は平安時代のもので、十世紀頃の鉄器を加工した工房の跡が見つかっており、それは胆沢城と関連する役所的なものがあったのではないかと思われる。そして、鎌倉時代以降江戸時代までは、葛西氏・江刺氏から岩城氏まで、歴史の支配者の江刺郡統治のためにこの城が置かれた。

 

一 岩谷堂城の地勢と立地

岩谷堂城は岩谷堂市街地北東の丘陵全体を占める巨大な山城で、北上川の東岸にあり、北上川支流人首川によって開削形成された貫通丘陵面を占地し更に、この丘陵南面は緑青岩の岩壁が切岸高く人首川に接していて登坂不能の天然の要害となっている。

北面は(空)堀状の地形によって丘陵が分断されている。縄張りは江刺平野に面する西から西南麓に城下町を配し、大手口を六日町方面に設け、城内桜小路の家中屋敷との間を急勾配の館坂によって接続されている。

本丸は標高一一四b・比高七〇bで規模は東西八〇b×南北一〇〇bの楕円状で周囲には土塁が巡らされ、人首川に面する北東・南斜面には帯状の腰郭が取り巻いている。

二の丸は東西一〇〇b×南北一五〇bで本丸より広大で周囲には水堀が現存していて、岩谷堂伊達家の居館跡地であり、今はグランドとして使用されている。

外郭は東西一五〇b×南北一二〇bほどで城全体で二八haほどの規模である。

全体的に単純な構造になっているが、城・平場の使用されているパーツの規模は大きく、相当の勢力の館城だったことが分かる。

 

二 岩谷堂城の成立

岩谷堂城は鎌倉時代以前からこの地にあったとも考えられるが、諸説あり詳細は不明。

文治五年(1189)奥州合戦で源頼朝に従った功により葛西清重が奥州総奉行として陸奥国の胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿など五郡を与えられ、江刺郡には葛西氏の支族千葉頼胤の三男胤道が配され岩谷堂城を居城として江刺氏を名乗ったとされている。

この陸奥国江刺郡岩谷堂に初めて城を築いたのは明応五年(1496)頃、江刺三河守重親(奥州葛西家、江刺郡地頭)と考えられる。

江刺三河守重親とは葛西氏十四代葛西伯耆守政信葛西晴重四男彦三郎のこと。

当時の城の構造は先述の絵図のものより簡素なものだったと思われる。

 

三 主家との対立

「奥南落穂集」では葛西信詮の次男、江刺信満岩谷堂城主とあり、南北朝時代以後は江刺氏が江刺郡の惣領職にあったと考えられる。

が、次第に江刺氏が勢力を拡大し、遂には主家葛西家との対立が顕著となり康安元年(1361)には江刺郡浅井村において両氏が衝突。

その後も幾度となく合戦。

明応四年(1495)江刺隆見と葛西政信との戦いで隆見は葛西氏に敗北し、岩谷堂城には政信の孫重胤が入城し江刺郡を支配した。しかし、天正十三年(1585)頃、重胤の数代後とされる信時が葛西氏に勘当され江刺重恒が城主を継いでいる。

 

四 葛西家の滅亡

天正十八年(1590)一種の踏絵である小田原征伐に参陣の機会を失った葛西(晴信)氏は豊臣秀吉の奥州仕置において所領没収となり、江刺氏もこれに従って改易。

重恒は岩谷堂城を去るが、浅野長政の取りなしによって南部氏に仕官することで命脈を保った。そして、江刺氏は稗貫郡新堀城(現石鳥谷町)一五〇〇石を、次いで和賀郡土沢城(現東和町)を二〇〇〇石で領した。

仕置後、葛西氏旧領は秀吉により木村吉清へ与えられ、岩谷堂城には吉清の家臣である溝口外記が城代として入城したが、外記は葛西・大崎一揆において一揆勢に敗れて討ち死。

これを受け主君の吉清は失脚、旧領は伊達政宗の所領へと移り変わっていった。

 

五 伊達氏の支配

伊達家の支配下に置かれた岩谷堂城には政宗の家臣桑折長政が入城。

「桑折堰」にみられる通り、長政の施政の主軸は用水路の開削や湿地の干拓事業などの領地整備に注がれたが、文禄二年(1593)朝鮮出兵中に釜山にて病死。

その後任には葛西氏の旧臣母帯越中が入城。母帯氏は葛西氏滅亡後政宗に仕えていたが、和賀一揆(慶長五年・1600)後は伊達氏の史書には一切登場しない。なお、『伊達秘鑑』によると母帯氏に替えて猪苗代長門の名が見える。

 

六 発展と終焉

その後の岩屋堂城は慶長七年(1602)には古田重直が城主となるが、江戸幕府による「一国一城」の布令により元和五年(1619)岩谷堂城は「岩谷堂要害屋敷」へと改称、その後増田宗繁が転封し館主となった。

元和八年(1622)岩谷堂が政宗の世子忠宗の御部屋領となったことにより、要害には伊達家の腹心らが御部屋付として交代で留守居役の任に(所謂城代制)。寛永二十年(1643)までは藤田宗和が、以後は古内義重・義如父子が在任。

古内氏転封後忠宗の子、岩城宗則が配され、大手や建物の移転や改築など大規模の整備が行われ要害屋敷と名を改めた岩谷堂城は仙台藩北辺の要衝の地と評されるまでに至った。伊達政宗から岩谷堂城(館)を拝領して桑折摂津守政長入城(館)が天正十九年(1591) 以来十六代城主伊達数馬邦規まで続き明治二年三月十五日この城は花巻県へ明け渡された。

ここに明応五年頃江刺三河守重親によって築かれた岩谷堂城は役目を終えたのである。

 

まとめ

初代城主江刺三河守重親から江刺兵庫守重恒まで続いた江刺氏も重恒の時代に秀吉の奥州仕置の許に退き、この地は政宗の領有となり、岩谷堂城は仙台藩の重臣の居城(要害屋敷)として明治維新に及んだ。

岩谷堂明治四年江刺県の廃止により江刺郡は一関県の管轄に、十二月には水沢県と改称。

岩谷堂城は「城」と呼ばれ、要害(屋敷)・居館(館)・陣屋とも呼ばれて明治五年水沢県岩谷堂出張所の役所として斬時使用されて後、城郭としての役目は一切終了した。この岩谷堂城の別名を『江刺城』・柄杓ヶ城という。

『江刺城』は江刺郡の郡名による所であり、柄杓ヶ城は築城する以前のあの丘陵を柄杓ヶ丘と呼んでいて、その地名を以て城の称号としたものであろう。

尚、直系の江刺氏は現在、茨城県に在住。

この方は旧南部藩「藩士の会」に所属、花巻市鳩峯山浄光寺(最後の城主江刺兵庫守重恒の菩提を弔う為に建立)に毎年墓参されている。

これは廃藩置県以降続いているという。

(注)添付資料は「奥州市教育委員会」が作成した現地掲示の「岩谷堂城案内板」の原稿資料。これは天和二年の要害地図に現在の地形図とを合成した貴重な絵図である。